このコーナーでは、私どものこだわりや想い、豆腐に関するあれこれをお届けします。
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■連載第24回「祖母ミツの事」
2002年9月13日は私(山下浩希)の祖母、ミツの命日です。94歳で亡くなりました。 1985年に「てんびんの詩」という映画がきっかけで私は家業の豆腐屋を継ぐ決心をしましたが、当時働いていた食品スーパーの(株)マルエーを退社するタイミングは、祖母の「もう疲れたから止める」という一言でした。
ところが、「疲れた」と言ったはずの祖母は私が家業に入ると俄然元気を取り戻し、それから約3年間、80歳過ぎまで一緒に豆腐を作りました。
祖母は3人の娘、7人の孫、13人のひ孫に恵まれ、私の母は三女で、私は5番目の孫になります。母からもらったお小遣いが無くなるといつも祖母が補填してくれました。私のプロレス好きも祖母の影響です。 祖母は若いときから行動派で、豆腐作りで疑問に思ったり、解らない事があったり、「美味しい」と評判の豆腐屋さんを耳にするとすぐに見学に行って習ったそうです。 「美味しい豆腐を作りたい!」「品切れでお客様をがっかりさせない」というのが祖母の豆腐屋としてのポリシーでした。ですから、美味しい豆腐を作り続ければお客様は喜んでくれる→そうすれば自ずとお客様は増える→生産量も増える。・・・常に前向きのチャレンジャーでした。
80歳過ぎまで元気で働いていた祖母も、引退後は一気に年老いてきて晩年は寝たきりでした。
仕事の忙しさにかまけ、十分な世話も出来ませんでしたが、母も私も妻も、祖母を施設に預けるという事は全く考えず、朝晩祖母の部屋に入り、眠っていても起こして声をかけていました。
「ばあちゃん、おはよう!」
『おはよう』
「誰か判るか?」
『ヒロキ』
「そうや、ばあちゃん、たっしゃか?」(達者か?)
『たっしゃや』(達者だよ)
「ありがたいにゃー」(ありがたいね)
『ありがたい』
「よろこばんなんにゃー」(喜ばなくてはね)
『よろこばんなん』(喜ばなくては)
「おやすみ」
『おやすみ』 | |
たったこれだけの会話でしたが、朝晩毎日繰り返していました。
私は、このまま祖母はずーっと100歳を越えても居てくれると思っていました。
ところが、2002年の9月に入り、涼しくなったとたん、急に呼吸が荒くなり病院に入院。
それから4日後の、13日午前1時過ぎに息を引き取りました。
母は最後に「ばあちゃん、ありがとう」と言って祖母を見送りました。
命日の13日が近づき、祖母の思い出を書きました。祖母は亡くなっても祖母の魂は健在です。
天国から見守ってくれる祖母の下で、美味しい豆腐作りに励みます。
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